ストリートマジシャンは観客のことを「お客様」と呼んでよいのか。良くない、というのが涼の考えだ。「お客様」という言葉の中には商売色が強く感じられるからだ。チップを入れても入れなくてもよい、と言っているにも関わらず、すでに支払いの義務を背負わせているような表現になってしまうのが、一貫性に欠くと涼は思っているのだ。
 ストリートパフォーマンスという馴染みのないものに対しては、ピンと来ないかもしれないが、例えば神社やお寺に当てはめてみるとわかりやすいだろう。 神社の参拝客に対して、神主が「お客様」と言うと違和感を感じてしまうことだろう。入れても入れなくてもよいはずの賽銭をねだられているように、涼には思える。お寺の住職にお経を読んでもらえばお布施を渡す。お布施は、お経に対して、普通渡すべきものではあるが、お経という商品に付けられた値段ではない。自発的に感謝の気持ちをお布施という形にするのである。現実的には必ず渡すものであったとしても、名目上は自発的だということになっている。そこを住職に「お客様」と言われれば、涼は違和感を感じてしまう。お経のありがたみもなくなってしまうようにさえ思う。募金係に「お客様」と言われても、祝儀を渡した新郎新婦に「お客様」と言われても、同じように、しっくりと来ない。「渡しても渡さなくても、金額がいくらでもよい」というニュアンスが消えてしまうように、涼には思えるのだ。
 ストリートパフォーマーに対する観客も同じだと涼は考えている。「チップ」とは入れても入れなくてもよいものであり、その金額も自由なものである。商売とは一線を画しているわけだ。見た目上はパフォーマンスという商品に対してチップという料金を支払っているようにも見えるが、涼の感覚としては、無料でパフォーマンスを披露して、無商品でチップをもらっているというわけである。そこに「交換条件」の契約は存在しないのだ。
 チケットを買ってもらって会場を取って演目をするのとは異なる。チケットを買ってもらえば、間違いなく「お客様」であり、レストランなどで演じれば、その観客も「お客様」である。間違いなく料金を支払う義務があり、あるいはすでに料金を支払った後の状態であるからだ。
 別の例として、プロスポーツ選手の場合はどうだろう。観客からチケット代を受け取っているにもかかわらず、選手たちは「お客様」とは通常言わない。プロ野球選手であれば「ファンの皆さん」「応援席の皆さん」と言うであろうし、サッカー選手であれば「サポーターの皆さん」ということになるだろう。これは、スポーツの世界に商売色を持ち込みたくないという気持ちの表れであろうと涼は思っている。「ショービジネス」ではあるが、観客はビジネスに取り込まれている気持ちではないのだろうと涼は思う。自発的にチケット代を支払い、自発的に応援するのだ。選手に年俸を支払ってやっている、という意識の観客は少ないだろうと涼は思っている。
 涼も、ストリートでは「お客様」とは言わないようにしている。商売色は出したくないのだ。「見ていただいている方」「ご覧になった方」というのが、涼の表現である。チップを求めて演目をしているのは確かだが、パフォーマンスを商品にしているつもりではないのだ。強いて言えば、パフォーマンスを見た時に感じる驚きや心地よさ、それが涼の商品だと言うことはできる。しかし、それは観客の心の中に自然に自発的に発生した心理なのであり、涼が作り出したものではない。涼は自分で商品を作ることはできないのだ。観客の中に突如現れる商品。涼と観客の共同作業によって生み出された商品と言ってもよいだろう。
 観客は、その突如現れた商品に対しての支払いの義務はない。ただ、自発的にチップを入れてくれるのが、涼には嬉しい限りである。





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