セルフワーキングマジック、というジャンルのマジックがある。仕事人としてのマジシャンが演じるには、勇気の要るマジックでもある。というのも、これは、演じる本人が理屈を理解している必要がなく、手順さえ守れば、誰がやっても自動的に成立するマジックであるからだ。つまり、仕事人としてのマジシャンが最も恐れる、
「あ。それ知ってる」
の一言ですべてが無に帰してしまう可能性を持っている。誰でもできるマジックであるのだが、誰でもできるマジックであることを知られてはならないのが、このジャンルのマジックを演じるための最大の条件である。

 テクニカルなマジックであれば、たとえ観客が知っているマジックであり、理屈を理解していたとしても、訓練なく演じることはできないので、マジシャンが演じるのを見るに値する、と言うこともできる。
 しかし、セルフワーキングマジックだとそうはいかない。失敗はないが、解き明かされる可能性も高い。観客がもともと知っている可能性もあれば、その場で気付かれることもあり得る。
 誰でもできるマジックをマジシャンが演じていたとしても、
「マジシャンがすごい」
ということにはならない。
「マジシャンがすごい」
ということにならなければ、チップは入らない。誰にでもできるマジックは、マジックとしては優れているし、レクチャーや教本の著作者は評価されるが、一方、演じたマジシャンが評価されるかというと、非常に悩ましい、ということになる。
 これは、マジックグッズの実演販売において、観客が驚いても、
「あの道具すごい!欲しい!」
と言ってグッズを買うことはあっても、
「あのマジシャンすごい!チップを出そう!」
とはならないであろうことに似ている。
 演者ではなく、方法論が評価されるということである。もっとも、そういうところでグッズを買って帰って家で説明書を見て、
「なんだ!難しすぎてあのマジシャンでないと演じられないじゃないか!」
と後々、実演マジシャンのレベルの高さが批判的な意味で思い起こされることは往々にしてあるのだが。

 そういうわけで、セルフワーキングマジックを演じる時には、それがセルフワーキングであることを悟らせないように巧みに心理誘導する必要がある。観客の錯覚を強める努力をしなければならない。
「あ。知ってる」
と言われてしまうと、終わってしまうのだが、しかしそれが最初からマジシャンにわかっているわけでもないので、マジシャンは慎重に会話を重ね、観客が錯覚していることを確認しながらマジックを進めなければならない。と言っても、それほど難しい駆け引きが必要なわけではなく、
「こうすれば、どういうことになると思います?」
というようなことをダイレクトに尋ねればいいだけである。マジシャンは、その観客の答えを聞いて、錯覚していることに確信を持てるわけだが、しかし、この質問にそういう意図があるとは、観客は思わないことだろう。
 観客が、マジシャンの指先ばかりに注意を払っている間に、実際のトリックは観客の頭の中で成立してしまう、というわけだ。あとは、ただただ当たり前のことをやるだけで、それが当たり前ではないという錯覚に基づき、観客は驚くことになる。考えてみれば当たり前だ、ということを考えさせないようにするのが、マジシャンの務めということになる。考えれば解ける問題を
「考えても解けない!」
と思わせる必要があるわけである。

 少しだけマジシャンの秘密を明かすことになるが、マジシャンはみな、この「考えてみれば当たり前だ」ということを常々利用している。
 例えば、5枚のトランプを手に持っているとして、それを1枚ずつ数えながらテーブルに置いていくと、カードの並びが逆になる。少し考えれば、誰にでもわかることだろう。しかし、この事実がマジシャンにとっての大きな秘密の一部を形成していて、この手法に「リバースカウント」という大層な名前がついている。もちろん、リバースしないで数えることもできるので、マジシャンはカードを数えながら、並び順をいつでも逆にすることができるというわけだ。これは秘密の作業ではあるのだが、秘密裏にやる必要はなく、観客に堂々と見せながら行うことができる。しかし、その堂々さが、たったいま秘密の作業を行ったという事実をカムフラージュしてしまう。観客は、目の前で秘密の作業を行われたなどとは思わない。ただ枚数を数えたとしか思わなく、順送りに数えたか、逆送りに数えたか、などは意識しないのだ。ただマジシャンが、
「枚数を数えてみましょう」
という言葉を鵜呑みにし、見破ろうと考えるとしても、
「2枚を1枚に見せられたりしないように、しっかり見てやるぞ」
と躍起になる程度であろう。
 もっと自然にリバースカウントをしたい場合は、
「ここに何枚あるか覚えてますか?」
と観客に尋ねることもできる。これは、今まさに並び順を逆にしたいというマジシャンの都合でカードを数えようとしているのに、それを観客の疑問に答えるためだと理由付けするための質問である。
 何枚あるのかを知りたい、と観客が思うように心理誘導し、数えることはマジシャンの都合ではなく観客のために行う行為であると意識付ける方法である。本当はマジシャンが行いたい行動を観客の希望であると錯覚させ、そしてカードを数えるという行為自体がカード順を逆にするという意味を持っているので、いわば2段のカムフラージュというわけだ。こうしておくと、たとえ、カードを数えると順番が逆になるのは当たり前だ、と理解している観客であっても、それを希望したのは自分自身なのだから、マジシャンがそこに計画的にトリックを潜ませることはできない、と錯覚させることができるというわけである。

 と、いうふうに、誰にでもできるマジックを演じる場合、マジシャンはマジシャンなりに、「誰にでも成功できるわけではない味付け」をしなければならない。同じマジックでも、マジシャンによって違う、と言われる所以でもあり、それをしなければ、たとえるなら、レトルト食品を提供するイタリアンシェフのごとく、ということになる。
 シェフのたとえ話とマジシャンの話は、似ているところがある。シェフは、他では食べられない味を追求することになるが、チェーン展開するレストランでは、どの調理員が作っても同じ味にならなければならないという命題を持つ。同じように、マジシャンは他のマジシャンと差別化することを考え、マジッククリエイターは、誰が演じても同じマジックになるよう道具作り、方法論作りをする。
 そういう理由があるのだから、クリエイターのターゲットは『特定のマジシャン』ではなく、『不特定多数』ということになり、つまり、観客のほうが知り得る機会も多いというわけである。その観客の知り得る方法と全く同じ方法でマジシャンが演じてしまうのは、
「観客が知らなければそれでいいのだが」
という面は確かにあるが、やや心許ないということになる。
「観客が知らなきゃ成功する。一か八かだ!」
と考えるのは、なかなかに勇気が要ることなのである。

 こういう考え方は、戦略論か戦術論かという区別においては、戦略論ということになるのかもしれない。観客が戦略論を見抜くことはできないであろうから、見破ろうと考えたとしても、戦術を考察することしかできないのは仕方のないことであるし、それ以上であってはさすがにマジシャンも困ってしまうものがある。
 涼はどちらかというと、戦術志向よりも戦略志向のマジシャンなのである。




  廣木涼を応援するボタン