体調は悪くなかった。天気も良かった。演目は、毎日30回を演じている、得意中の得意の鉄板ネタだった。上手くいかない要素はひとつもない。……そう思うのは大きな間違いだった。
 演目後、涼はうなだれるしかなかった。不本意な形で終幕を迎え、忸怩たる思いを嚙み締めさせられる。予定していたことに対して大きなミスを犯した、ということでもないので、力不足だったと言うほかない。あるいは、そもそも読み違えていた、というのが正しいのかもしれない。

 会場には50人から100人の観客が集まっていたが、涼のマジックはスケールが小さいので、それだけの人数が一度に見るのは難しい。であるので、涼は、演目が始まるとまず、
「遠くからではあまりよく見えませんので、ぜひお近くに寄って見てください」
と会場に声をかけた。日ごろ30㎝の距離で演じているものを、5mの距離から見られていると思うと、涼としても演じにくいものがある。至近距離で見てもらってこそ、クロースアップマジックは活きるのである……のだが。
 涼の声に従う者は、ひとりもいなかった。
「マジか!?」
と涼は内心慌てたものである。寄ってもらい、まずカードを1枚引いてもらわねば、演目が始められないのだ。
「どうぞ、お近くで見て、不思議を体感してください」
 そのようなことを何度か呼びかけたものの、結局、誰も涼の前には集まらなかった。
 とてもやりにくい環境であると感じたが、これは他のパフォーマーも同様に苦しんでいたところであり、別にアンフェアな状況ではない。今日の観客は、誰に対しても素っ気ない観客であったのだ。みんなが同じ環境でパフォーマンスをしている以上、涼が不満を述べることはできないし、不徳の致すところと言う以外にはない。
 実は演目に入るよりもずいぶん前に、ひとつの心境変化があった。たまたま知り合いのマジシャンが見物に来ていて、そのときに、
「この審査に受かったら」
という話をしていたのだ。涼は、
「上野公園で演じたくてヘブンアーティスト取ろうと思ってるんです」
という動機で申し込みをした。申込書にもそのように書いた。しかし、すでにヘブンアーティストを取得しているそのマジシャンは、
「あ、でも、上野公園って、全然予約が取れないんですよ~」
と言うではないか。聞くと、人気スポットであるため、予約殺到となり、3日間電話をかけっぱなしにしてやっと繋がり、それで場所が取れるかどうか、という話であった。
「え!じゃあ合格しても上野公園じゃ滅多にできないということですか!?」
「たぶん、そうなります」
 そして、涼の審査の動機は失われたのであった。
「なんか、今から演目する気力が萎えますね」
「そんなこと言わずに!頑張って!」
 そう励まされたものの、動機が失われると、アクシデントに対応できなくなるものだった。
 モチベーションが高ければ、観客が寄って来なくても努力をするものだろう。モチベーションが低くても、観客が自然と寄ってくれば、何事もなく演じられたことだろう。しかし、双方が負に働くと、苦境を乗り越えられなくなってくる。最近、仕事中でも演目のウケが良いことが多いだけに、
「反応悪い時は長居せずにサッと終わって次に行こう」
という職業思考が身に付いてきていて、それがこのときはマイナスに働いたであろうことは否めない。あまり挽回しようという気持ちが湧かなかったことは、後になって悔やまれるものだった。
 結局、遠方まで進み出て1枚を引いてもらったり、カードにサインをしてもらったりして、遠方の100人の観客に対してマジックを演じた形となった。最後には拍手が起こったが、その距離から見えているとは思えず、涼としては、のれんを押しているようでもあったし、ぬかに釘を打っているようでもあった。

 話はそれだけでは終わらない。ロジカルに計画を立ててしまうと、ひとつ狂えばすべて狂うものである。涼は、持ち時間を2分割し、2本立てで演じる計画を立て、そのように書いた計画書を1ヶ月前に提出していた。クロースアップは大人数では見られないだろうから、少人数に対し、観客を入れ替えて同じ演目を2度行う、ということである。少人数が寄って来てくれていれば、その計画通りになったわけではあるが、寄って来なかった以上、2度演じる必要もなくなった。結果、持ち時間の半分を余らせた状態で演目を終了させることとなった。
 今日になって失敗したと言うこともできるが、ともすれば、1ヶ月前から今日の失敗が予定されていたと言うことにもなるわけである。1ヶ月前の、計画段階での涼の読み違えが、今日の結果を生んだとすれば、それに気付かず過ごしてきたこの1ヶ月の自分の愚かさに呆れもする。まして、演目直前まで、観客が簡単に寄って来てくれると思っていたわけだから、そのご都合主義の思考回路が恥ずかしくも思えるほどである。いったい誰がそんなに涼の都合の良いように動いてくれるというのか。なぜ、そう自分の都合の良いように場が動くと計画してしまったのか。
 そんなことを演目中に思いもしたが、時すでに遅しというところがあった。とはいえ、持ち時間が十分に残っていたところで、計画を変更して別のマジックを演じる手ももちろんあった。コインマジックを演じる手だってある。しかし、その可能性を潰したのもまた自分自身であった。1ヶ月前の計画書の段階で、
『カードやコインを使ったクロースアップマジック』
という演目名を、わざわざ、
『カードを使ったクロースアップマジック』
に変更し、あまつさえ、
「今回はコインマジックは演じません」
と注意書きをして提出してしまっていたのである。もちろん、2本立てで演じるためであり、時間を切り詰めるためである。よもや、今日のような事態に遭遇するなど、あの時は思いもよらなかったのだ。
 カードマジックだけで場を繋ぐことも、できるにはできるが、それもまた観客が近くに寄っていた場合の話である。クロースアップマジックは対話のマジックであり、話し相手がいないのに延々と続けるのは難しいのだ。それに、場繋ぎで伸ばしても、より良いフィニッシュで終わらなければ、せっかくのクライマックスが無駄になる。アドリブの場繋ぎで、計画していたよりも――しかも毎日演じている鉄板のフィニッシュよりも――良いフィニッシュを迎えることはできないであろう。
 演じながら、様々な葛藤があり、その上で、涼は時間を大いに余らせた上で演目を終えた。拍手は起こったが、ただただ頭を下げながら、目を伏せるばかりである。合否の結果は審査員任せではあるが、自身判定なら不合格しか出せないところだ。何もいいところを見せられていないのだから。
 今回、『マジック』というジャンルを演じるパフォーマーは8組いるが、『クロースアップ』であるのは涼しかいないし、マジックのみで演目を構成しているのもまた涼しかいないようだった。ジャグリングやパントマイムと組み合わせるのが一般的であり、純然たるマジック――すなわち、マジック的テクニックを魅せる芸――が希少であることを十分に理解していたにもかかわらず、不甲斐ない自分に悔恨の念を抱くばかりである。
 演目後に、内心落ち込んでいた涼に、
「いやー!感動しました」
と名刺を差し出しながら声をかけてくれる者があったことが、せめてもの救いであった。
「マジックキャッスルなんかにも行ったことがあるのですが、日本では、そういうクロースアップマジックが注目を浴びていないのか、あまり見る機会がないような気がしていまして。さすが近くで見てと言うことはありますね!他のパフォーマーとは目的や動機からして違うように見受けられました!」
 その観客は興奮気味に言ってくれて、それはそれで喜ばしいことだったが、
「だったら演目中に来てほしかった」
と皮肉な気持ちになる涼であった。




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